日本・明治前の脳研究
国際文化研究科助教授 鈴木道男
脳が精神の宿る場所という説は、すでに漢代に行われている。しかし、漢方医学で精神の座が確定されていたわけではなく、精神科学について漢方医学に多くを求めることはできそうにない。
江戸時代の日本では、鎖国下の情報の乏しい下で「本草綱目」を解釈する作業が必死に続けられ、その副産物として日本博物学が発達していた。しかし、その成果を広く渉猟しても、やはり脳を対象に据えたものは見出しがたい。
それでは、いつをもって江戸の医学者たちは精神の座として脳を認めたのか。その最大の目安は、よく知られている「解体新書」である。オランダ医学とて、はじめからすべての医学者が認めるほどの水準にあったわけではなく、また日進月歩の西洋医学の水準がそのまま蘭方医たちの水準であったということは、不可能なのである。実際、訳語を厳しく確定していった杉田玄白らの業績があって、そして他を圧する小田野直武の精密な模写が世に広まって、はじめて西洋医学の分析的手法の価値が、次第に漢方を駆逐するようにして認められていくのである。脳が精神の座であるという基本的な事実の認識も、やはり「解体新書」の翻訳作業にその端を発することには注意すべきである。
「解体新書」以前・以後
展示では、「解体新書」の前と後をビジュアルに提示すべく、東北大学所蔵の資料を配した。すべて附属図書館「狩野文庫」の所蔵になるものである。「重訂解体新書」の解剖図より脳の部分を展示するほか、蘭書をもとに次第に精密化していった解剖知識を示すものとして「解体発蒙」から脳の部分を展示する。「解体新書」以降、脳が精神の座として認められてゆく状況を示すのが「生象止観」や「内景備覧」のような医学書である。白眉は「解剖存真図」である。これが展示に供される機会は極めて少ない。この図からは「解体新書」に見られる脳の解剖法が忠実に踏襲されていることがわかり、「解体新書」の衝撃が日本の医学を急速に実証的な学問へと変えていった実例ということができる。本書から乾の巻冒頭の頭部解剖図を展示する。「解馬新書」の題名から「解体新書」の影響は歴然としている。表現は現代のものとは異なるが、脳が動物においても精神活動の座であることが認識されている。
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「解体発蒙」三谷公器著 解剖図木版多色刷
三谷(1755‐1823)は近江の人、名は樸、字は公器、号は笙州。本草学的博物学者で京都を代表する存在であった小野蘭山の弟子。鳥獣の解剖も行ったとされる。
「解体新書」によって解剖学的知識が急速に普及していくなかで、漢方医のなかにも解剖学を否定せず、それに五臓六腑説を牽強付会し、漢蘭折衷派と呼ばれる人々が一派をなしている。その代表作が本書である。享和2年(1802年)、京都で荻野元凱(1737-1823)の門人らが行った解剖に陪席した際の見聞をもとに、本書は著された。 東北大学附属図書館所蔵
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「内景備覧」石坂宗哲著 2巻2冊 天保11年(1840年)陽州園刊
石坂宗哲(1770‐1841)は、幕府の御殿医シーボルトに鍼を贈ったことで知られる鍼医。甲府の町医者であったが、幕府に登用されて奥医者となった。その後、幕府の命により甲府に官民問わず医者の子弟を教育するための「甲府医学所」を設立し、蘭方を咀嚼して「石坂流鍼術」を編み出した。 東北大学附属図書館所蔵
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「生象止観」野呂天然著 8巻音義1巻8冊 文化12年(1815年)刊
野呂天然(1764‐1834)は、蘭方医、名は真空、号は無量居士、如々庵。江戸の人、後に大阪で開業する。本書の「生象」とは解剖の意味である。解剖学書だが、独特の術語が用いられている。 東北大学附属図書館所蔵
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「臓腑経路詳解」
元禄時代に著された小型医学参考書。この時代には、やはり脳は精神の座ではなく、その積極的な機能も明らかにされていない。脳は「髄」で満たされた場所とされていたことが図示されている数少ない資料である。 東北大学附属図書館所蔵
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「解馬新書」菊池東水著 嘉永5年(1852年)尚古堂刊 全2巻 江戸時代に人間以外の動物の脳について記述されている数少ない、ほとんど唯一の文献である。江戸時代最初の家畜の解剖書である。 東北大学附属図書館所蔵
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「解体新書」
本書によってはじめて脳が精神の座であることが示され、以後、それが急速に定着していくことになる。すなわち日本の脳研究においても、その夜明けを告げた書である。「神経」などの多くの訳語もこの書に発している。
本書の原典はドイツのアダム・クルムスの「解剖表」(1732年出版)であり、その蘭訳本からの重訳である。平賀源内が開いた秋田蘭画の異才小田野直武が原典以外の蘭書の付図も取り入れて図を模写している。
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「解体新書」 杉田玄白訳、中川淳庵校、石川玄常参、桂川補甫周閲 本文4冊、序図1冊 東北大学附属図書館所蔵
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解剖存真図
南小柿寧一は、号は甫祐、西崖、字は清人、生年に諸説あるが没年は1865年と思われる。文政己卯(1819)に奥医師桂川甫賢が序を付している。
寧一は甫賢に就いて蘭方外科を学び、江戸の刑場で自ら解剖したところを描いている。彩色された頭部の解剖図は正確で圧巻、その迫力に打たれる。40例を超える多数の解剖に加わって経験を積んだ寧一が、小石元俊(1743‐1808)の解剖図や蘭籍を参考として、乾坤2巻にまとめたのが本図である。脳解剖学者であり、医学史の研究者でもある小川鼎三は、本図を江戸時代の最高の解剖図とみていた。おそらくは誰の目にも異存はなかろう。
序を付した桂川甫賢は将軍家侍医桂川家の第6代、大槻玄沢とともに仙台伊達家出身の幕府若年寄堀田正敦の蘭学のブレーンであった。彼は、シーボルトの紹介で日本人初の西洋の「学会」(バタフィア芸術科学協会)の会員(通信会員)となったことでも知られている。
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「解剖存真図」
淀藩医員南小柿寧一著
乾の巻
坤の巻
東北大学附属図書館所蔵
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顕微鏡時代前夜
解剖学の歴史の始まりには二人の巨人が立っている.ヴェサリウスとハーヴェイである。それまでの解剖学者は一段高いところに座りガレノスなどの教科書を読み上げ、別の執刀者が解剖を行っていた。しかし、ヴェサリウスは、自らメスをとって死体を解剖したのである。
ヴェサリウスは1543年に「ファブリカ」という大著を著した。その解剖図は正確で美しかった。しかし、ヴェサリウスは結局、ガレノスを否定しなかった。血液が心臓から動脈を通して全身に送られ、静脈を通って心臓に戻る。この当たり前のことが知られていなかったのである。ガレノス説では、「生命生気」が動脈を通り、「動物生気」が神経を通って全身に行き渡ると考えられていた。この説は、1628年にハーヴェイが「心臓と血液の運動」を著すことによって完全に否定された。
旧世界が終りを告げたころ、デカルトが心と体を厳格に区別する心身二元論を説いた。一方で、彼は脳の奥の松果体を内在としての精神(心)と外在としての身体の結び目と考え、ここを介して精神と身体の相互作用が起こるとした。
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ヴェサリウス「ファブリカ」扉絵(1543年) 中央で執刀しているのがヴェサリウス
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ガレノス説による3種類の「生気」の循環図 「生命生気」が動脈を、「動物生気」が神経を通って全身にいきわたるとされた。
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デカルト 「人間論」(1664年)洋ナシ形の「松果体」が心と体の結び目だと考えられた。 東北大学附属図書館所蔵
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