東北大学総合学術博物館のすべて 企画展「脳のかたち 心のちず」

 

顕微鏡の時代顕微鏡の時代

神経解剖学の巨匠・布施現之助
総合学術博物館 小川知幸

「東北解剖室のよき発達は主任教授たる小生が生命を誓って責任を負うべきもの、小生の経営にして不當、又研究上余り人後に落ちるようならば其時は一秒時の用赦なく辞職せねばならぬ事に候」
                              布施現之助の書簡より

 布施現之助は、「まことに峻烈な先生」であったという。布施門下で、のちに東大教授となった小川鼎三は、「先生の指導はドイツ式の厳格なもので、朝はいかに寒くとも8時までに出勤していなければ、助教授であろうと助手であろうと区別なく叱るのであった」と証言している。その激情の向かう相手はとどまることを知らず、教授会の席上でも、茶碗が投げ飛ぶほどのケンカをするのは、かならずと言っていいほど布施であった。
 しかし、自らも文字通り寝食を忘れた研究生活を実践して、いつも顕微鏡をのぞき込んでいるような研究の虫であったと同時に、講義にも熱心であった。燕尾服で講義室に現れ、黒板に説明を描いているうちに、縫い目がほつれ袖が垂れ下がると、それを引きちぎって片腕を出して講義を続けたという。学生の世話にも熱心で、1928(昭和2)年、医学生のために、寄宿舎「昭和舎」を建てさせた(2000年9月焼失)。

■東北大学附属図書館医学分館に所蔵される布施文庫目録

東北帝国大学医科大学の設立

  わが国の近代医学の発展は、ドイツから学ぶことから始まった。1877(明治10)年、東京大学医学部が発足すると、ドイツから医学教師が招かれ、講義もすべてドイツ語であった。政府は、医学教育制度を整備し医師の養成を急ぐため、医学専門学校(医専)を岡山、長崎、千葉、金沢、仙台、新潟の6ヶ所に開設した。
 仙台では、すでに1881(明治14)年から医科大学の設置が望まれ、1906(明治39)年になると、当時の宮城病院を移転・改築して医科大学の設置に備えていた。1912(明治45)年に仙台医専が東北帝国大学附属医学専門部になったのをきっかけとして、解剖学教室の建築がはじまり、医化学教室、病理学教室、生理学教室、細菌学教室が次々と着工された。
 1915(大正4)年、ついに東北帝国大学医科大学が開設された。しかし、当時の北条時敬総長は、新しい医科大学はたんなる「医専」の昇格であってはならないと考えた。つまり、大学教授になるものとして医専に赴任していた者をのぞいて、東西の並みいる俊英たちを新しい大学に招いたのである。この頃、もはやドイツ人教師を医学校に雇うようなことはなくなり、日本医学が独自に立ち上がりはじめていた。
 東北帝国大学医科大学には、解剖学、生理学、病理学、病理解剖学、医化学、薬物学、細菌学の各講座がおかれ、授業は9月11日にはじまった。入学者51名。設備は十分ではなかったが、教授たちは「日本一の卒業生を出そう」と意気込んだ。
 この草創期に解剖学第一講座を担当したのが、チューリヒ大学での留学から帰国したばかりの布施現之助であった。冒頭にかかげたのは、布施が留学先から北条総長に宛てた書簡の言葉である。北条が布施に仙台への赴任を求めた、その返答としての決意の言葉であった。

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医学専門部新築校舎 東北帝国大学医学専門部附属病院 布施現之助

医学専門部新築校舎(解剖学教室等) 大正2年(1913)頃 出展:東北帝国大学医学専門部在学記念帖(大正3年)東北大学史料館所蔵

東北帝国大学医学専門部附属病院 大正2年(1913)頃 北四番丁・木町通交差点付近 出展:東北帝国大学医学専門部在学記念帖(大正3年)東北大学史料館所蔵

布施現之助 昭和14年 出展:皇紀二千六百年東北帝国大学医学部卒業記念アルバム 東北大学史料館所蔵

脳神経模型 眼球模型

左:脳神経模型 右:眼球模型
東北大学医学系研究科(医学部)の前身、仙台医学専門学校時代からの備品 東北大学医学系研究科所蔵

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顕微鏡的人脳図譜

 布施現之助が生涯邁進した研究分野は、脳幹の神経伝導路の比較解剖学的研究であった。東京帝国大学医科大学を卒業すると、1907(明治40)年、国費留学生としてスイスに渡り、チューリヒ大学のモナコウ教授のもとで神経核の研究を行った。1911(明治40)年に帰国するが、ふたたびチューリヒに戻り、モナコウとともに「顕微鏡的人脳図譜」を出版した。これは国際会議のおりに、世界中の研究者が用いることのできる標準的な図譜を作製する計画がまとまり、その任に最適な者として、モナコウが布施を招いたのであった。布施は、この業績と、その後の25編の論文により、1921(大正10)年に帝国学士院恩賜賞を受賞した。布施の比較解剖学的な手法は、布施門下から輩出した多くの解剖学者に受け継がれた。

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ドイツ・ライツ社製顕微鏡 モナコウ教授

1914年 ドイツ・ライツ社製顕微鏡

モナコウ教授

「顕微鏡的人脳図譜」表紙 「顕微鏡的人脳図譜」 「顕微鏡的人脳図譜」布施原稿

「顕微鏡的人脳図譜」

「顕微鏡的人脳図譜」布施原稿

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布施「脳連続切片標本」コレクション

 布施現之助がその存在をあきらかにした神経核に「ケリカー・布施核」と「上丘オリーブ核」がある。どちらも脳幹(橋・中脳)にあり、前者は呼吸調節、後者は瞳孔反射に関係すると考えられている。とくに上丘オリーブ核について、布施はヒト脳だけでなく、40種を超えるサル脳のほか、イルカやアザラシなどの水棲ほ乳類の脳も観察している。大正の終わりごろから、布施は比較解剖学に多くの注意を向けるようになり、世界中の珍しい動物の脳を集め、2、3人を専ら標本製作に充て、長い年月をかけて約10万点といわれる連続標本を作らせている。
 これらの標本は、布施退官後も教室の一部を布施記念室として多数のスケッチ等関連資料とともに整理保存され、研究者に提供されていた。大部分の標本はパール・カルミン染色されている。標本に記載されている動物名の調査によると、動物種は約200種、このうち、フクロウオオカミとニホンアシカといった絶滅種と絶滅危惧種44種が含まれている。これほど多くの脳連続切片のコレクションは他に類をみないものであり、多くの絶滅危惧種を含む当コレクションは世界的に見ても非常に貴重なものといえる。

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「フクロオオカミ」 あしか 黒鰐

記載名:フクロオオカミ
  (フクロオオカミ)

記載名:あしか
  (アシカ)

記載名:黒鰐
  (クロワニ)

麒麟 神猿 リンクス

記載名:麒麟
  (キリン)

記載名:神猿
  (ハヌマーンラングール)

記載名:リンクス
  (ヨーロッパオオヤマネコ)

臺湾猿 ヤツメ トビ

記載名:臺湾猿
  (タイワンザル)

記載名:ヤツメ
 (ヤツメウナギ?)

記載名:トビ
(トビ)

鰐亀 セミイルカ 両峰駱駝

記載名:鰐亀
(ワニガメ)

記載名:セミイルカ
(セミイルカ)

記載名:両峰駱駝
(フタコブラクダ)

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脳の風景の中を行く

「われわれのニューロンの形態学に関する知識は、まだまだ予報程度といっても過言ではない。未知の土地を旅するには、何よりも地図が必要である。」
                          万年甫「脳の風景」より

2つの脳図譜

 1916年に布施現之助が師匠のモナコウ教授と共著で出版した「顕微鏡的人脳図譜」は、小川鼎三によって、その細かい正確な描写は人間の能力の限界にまで達していると評されました。帰国後も、布施は人脳図譜の完成を念願し、スケッチを多数作成しています。それから72年後の1988年に、布施の孫弟子にあたる万年甫によって「猫脳ゴルジ染色図譜」が出版されています。この図譜は「現存する唯一のゴルジ法による図譜」といわれます。布施は学生のためにラモニ・カハールの講読を熱心に指導したといわれています。布施と万年の2つの図譜は、19世紀末にヨーロッパのラモニ・カハールに発し、日本に至る細胞解剖学の確かな流路を示しているのです。

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「猫脳図譜」ゴルジ染色 「猫脳図譜」ニッスル染色 「脳切片スケッチ」小川鼎三

「猫脳図譜」 ゴルジ染色 橋下部、顔面神経臍および外転神経核の高さの断面 画:萬年 甫 東北大学附属図書館医学分館所蔵

「猫脳図譜」 ニッスル染色 橋下部、顔面神経臍および外転神経核の高さの断面 画:萬年 甫 東北大学附属図書館医学分館所蔵

「脳切片スケッチ」 小川鼎三「脳の解剖学」より 東北大学附属図書館医学分館所蔵

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