アメリカ合衆国博物館視察(ロサンゼルス篇) 2008年3月
2008年3月5日から14日にかけて、財団法人カメイ社会教育振興財団の助成をうけてアメリカ合衆国の博物館を実地調査しスタッフと意見交換をする機会を得た。
訪問都市はロサンゼルス、ピッツバーグ、ワシントンDCの3都市にわたり、視察対象は6つの博物館に及んだ。報告は前・後篇にわけ、今回はロサンゼルス篇をお届けする。
赤茶けた土地と灰色の土地
機上の人となり10時間が経った。ほうぼうの窓際から白色の陽光が洩れ始める。目が慣れるにつれて、森林とも荒れ地ともつかない赤茶けた途方もない大地が窓外に広がっていることに気づいた。ロサンゼルスである。
この人の手にあまる規模の大きさには、空港からダウンタウンに向かう車中でも圧倒された。天を突くビルの林立する街並みは、まさに巨神の遺跡であり、そのなかを行き交うわれわれは、仕切り壁と道路をちまちまと作ってようやく人間のサイズを手に入れた侏儒にすぎない。
ロサンゼルスは人口約385万人、全米で第3位の大都市である。周辺諸都市を含めた大都市域はグレーター・ロサンゼルスとも呼ばれ、関東平野にも匹敵する面積をもつ。
サンタモニカやパサディナ、ロングビーチはよく知られているが、それらは巨大化を続けるダウンタウンの生活に嫌気がさした人びとが作り上げた郊外の中核都市である。仕事も買い物も各々の町ですませられるようになると、彼らはダウンタウンに出てこなくなった。ビルの底を歩く人びとの姿は、夜間には不思議なほどに消え去ってしまう。
内側の記憶
われわれが向かったロサンゼルス郡立自然史博物館も、やはりダウンタウンの周辺域にあった。およそ3300万種の標本を所蔵する、西海岸でも屈指の博物館とのふれ込みである。
DASHという驚くほど飛ばす路線バスに乗って十数分。南の郊外に放り出されたわれわれは、素っ気ないコンクリートの壁に覆われた博物館を見上げていた。出迎えは、勇ましいティラノサウルスとトリケラトプスの実物大造形モデルである。
しかし正面玄関をくぐると、内部はいわば宮殿であった。スパニッシュ・ルネサンス様式と思われる建築様式を採り入れた、円柱と丸天井。そのロトンダ(円形大広間)には、今し方出会ったばかりの恐竜たちが骨格となって鎮座している。だからこの宮殿のあるじは人間ではなく恐竜なのである。
われわれはこうして二重の意味で内部へと入った。博物館のコンクリート壁の内側は、人びとの歴史の「記憶」であり、その「文化」の中心にあるのは、掘り出された恐竜の骨であった。
歴史と自然
博物館の中核となる部分は1913年に 竣工した。以来増改築を繰り返し、現在の建物は地下1階・地上2階である。そこに北アメリカの恐竜、ほ乳類、鳥類、海洋生物、新生代の化石、宝石と鉱物などが展示されており、収蔵標本は45億年の歴史を網羅すると謳われている。
ただし展示資料はオリジナルではなくレプリカが多いという印象を受けた。実際に発掘資料を所蔵していても、それらを市場に出さないことでいわゆるレプリカ・ビジネスを潤わせるという事情もあると聞いた。
しかしそれでも、ジオラマを中心としてほ乳類の展示は充実しており、薄暗い宮殿の壁にあたかも大きな窓があいているかのように、森林や砂漠や雪原のなかで大小の野生動物たちの織りなす場景がいくつも再現されていた。このジオラマ作りは自然史博物館の伝統であり、これを基準としてそれぞれの博物館の展示に対する取り組みを推し量ることもできる。
郡立自然史博物館ではジオラマに簡潔な解説をつけたり触れることのできる部分を作ることで、時間と空間を超えて野生に親しめるよう工夫されていた。だがそれは本来、人間が触れえぬものとしての自然への崇敬である。
生きられた過去
父親が体をかがめて、小さな娘にはく製の説明をしている。恐竜の骨格標本や巨大海洋生物の水槽の周りには、授業の一環なのだろう、引率の先生に連れられた小学生たちがにぎやかに走り回っている。
しかし、われわれが次に足を運んだ地階の歴史展示室は、ひっそりと静まりかえっていた。カリフォルニアのはじまりから現代にいたるまでの歴史資料を陳列した、広大な展示室である。
カリフォルニアの歴史は1848年に米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)の結果、メキシコが敗戦し、合衆国に譲渡されたときに始まる。同時にいわゆるゴールドラッシュが始まり、さらに大陸横断鉄道の開通によって大規模な人口流入が起きた。1850年にわずか1600人あまりであったロサンゼルスの人口も、1900年には約10万人、1950年には197万人にまで達した。
また油田が発見され、ポール・ゲッティという石油王を生んだ。市内には広軌の高速鉄道が走り始め、馬車に代えて人びとの足になった。年に数日しか雨が降らないという恵まれた気候から、北西部には映画の都ハリウッドが形成された。
米墨戦争からディズニーの撮影資料にいたるまで、金鉱脈の掘削の道具やその様子を写した拡大パネル、高速鉄道の車両、道路舗装用大型機材、郵便飛行機の模型、新聞印刷機などの資料群がそこにはあった。
およそ一瞥すればカリフォルニアの歴史の特徴が飲み込める。しかしまるでパズルのピースを散らしたように、何か歴史の一部を切り取って雑然と配置したようにもみえた。そして、人気がなかった。
集合的記憶
歴史に対する価値観の相違にもよるのだろう。共通の歴史の不在、あるいは人びとの集合的記憶のある場所の違いといってもよい。後日サンタモニカ近くのゲッティ・センターや、リトルトーキョーの全米日系人博物館を訪れたときに、われわれはそうした思いを強くした。
サンタモニカ湾を望む白亜の美術館で、富豪が収集した数々の美術品を眺めたとき、あるいは第二次大戦下で、強制的に収容された日系人がわずかに携行を許された革トランクが山と積み上げられている展示をみたとき、われわれは、人びとがそれぞれ異なる集合的記憶をもっており、歴史に対して投げかける視線は決して交わることがないと知った。
しかし、それだからこそ、共通の記憶が必要だったのではないか。そしてそのために選ばれたのが自然史であった。
カリフォルニアの、ひとの耕さぬ土地を耕すため、歴史のない土地に文化を築くために(cultureには「耕す」という意味がある。その名詞のcultivationは耕作・教養の意)、「われらの」土地で生み出したもの、その最たるものが恐竜の骨だったのであり、それをあたかも生きているかのように体験することが、人びとには重要であったのである。